平城遷都と奈良食文化の源流 神饌
今年もあとわずかで正月を迎える。正月には屠蘇に雑煮、お節料理で祝うのが日本の伝統であるが、日本各地にはじつにさまざまな雑煮やお節料理が伝わっていて、それぞれの郷土の味になっている。
ここ大和の正月に祝う雑煮はというと、他地域の者にとってはまさにカルチャーショックを受ける異文化の食べ物なのである。その雑煮とは、関西風の味噌(みそ)仕立てであるが、汁のなかには焼いた丸餅と里芋(人の頭になるようにと切らずに丸のまま使う)、雑煮大根(祝い大根ともいい、小振りの大根をいう)が入っている。変わっているのは雑煮餅の食べ方であり、丸餅は雑煮椀から取り出し、きな粉をまぶしていただくのが習わしで、まさしく関西風の雑煮とあべ川餅の組み合わせなのである。
この大和固有の雑煮の食べ方のいわれを古老にたずねても「餅に味がないからきな粉をつけて食べる。昔からそうしたものだ」との答えが返ってくるだけできな粉をまぶす意味について語る人はいない。
この食習の謎を解く手掛かりが、大和の祭りのなかにあった。
稲作農業を生活の基盤とし、産土神(うぶすながみ)の信仰のもとに生計を立ててきたムラにおいては、春には五穀豊饒(ごこくほうじょう)を祈念し、秋には豊作に感謝して祭りが斎行される。祭りには神霊を迎え、神前に「神酒、洗米、餅、海魚、川魚、鳥、海菜、野菜、菓、塩水、」の神饌をお供えする。これらは明治八年に神社祭式で統一された神饌品目であり、生饌(調理してない生もの)といわれるものであるが、加えて、古社の由緒ある祭祀やムラの祭りには、その時期に最も美味な食べ物を清らかに調理した熟饌も神仏に供える。
秋祭りには大量の高盛り飯を新藁や紅白の水引で結んで供え、正月祭事には餅に次いで、ゴボウや里芋に大豆の粉をまぶし(写真)あるいは大豆の汁をかけて神仏に供える。
古い時代の祭りのごちそうがお供えものとして現前と伝わっているのである。すなわち、「神饌」とは、神が召し上がる食事であると同時に、その時代に生きた人間の最上の食べ物であるといえる。
大和の雑煮餅にきな粉をまぶす作法について正月祭事から観察してみると、神仏にお供えする畑作物のゴボウや里芋への大豆利用が、いつのころからか稲作物の餅へと伝承が移行して、大和固有の雑煮の食べ方に発展したと考えられる。
大豆は、稲作以前に大陸より伝来し、「記紀」のころには重要な食べ物として五穀に数えられた。また、『延喜式』(九二七年)には「鎮魂(たましずめ)」、さらに、『医心方』(九八四年)には「煮汁は鬼毒を消し、炒り粉は胃中の熱を治療して腫れを取る」などの記述もあることから大豆の効用が伝わり、長寿と延命を願う節の日の食べ物として供物および正月の食べ物になったと考える。
こうした雑煮餅の食べ方のように、大和の祭りに供えられる熟饌には奈良時代から伝えられ、現在の食習に変容しているものも多くあり、大和の食文化の源流をみることができる。
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