奈良時代からの素朴な味「おかいさん」


「奈良は美味しいもののない所だ」と昔からよく言われてきた。しかし本来、奈良時代には、王朝の高貴な人たちが当時としては最高級のものを食べていたはずである。「おいしいもの」は京都に遷都したとき同時に遷都してしまったのだろうか。
しかし「おいしさ」は時代ととも変化する。「こってり」ではない日本の味として、おいしい茶粥は、奈良では昔から「おかいさん」とよばれ食べられてきた。
私の母も良く炊いたが、茶粥は普通の白粥より水を多くするのがコツだ。大きな釜に米を二合から三合入れて水を多くし、ほうじ茶を茶袋に入れてうす塩の味をつける。ゆっくりと煮立て、炊き上がったとき顔が映るくらい水分の多いものがいい。
出来上がるとフーフーいいながら、お新香や梅干やおかき等入れて食べたものだ。ほうじ茶の匂いが何ともいえない素朴な味だ。夏には冷たい茶粥をすする。特に二日酔いの朝食べる茶粥の味は忘れられない。中国から僧侶を通じて奈良に伝わったと考えられる茶は古来から薬効が尊ばれており、今日の科学でも証明されているから、健康に良いことも事実である。

さてこんな茶粥のルーツを調べて見ると、「古事類苑」の飲食部六の項には「大和の国は農家にても一日に四、五度の茶粥を食する。聖武天皇の御代、南都大仏御建立の時、民家各かゆを食して米を食い延ばし御造営のお手伝いをした。以降奈良では茶粥を常食するようになった」とある。

また毎年行われる東大寺二月堂のお水取りのとき、伝統法会で連行衆の毎日の食事の献立に「ごぼう(ごぼ)」がある。行の後に宿所でとる食事「ごぼう」は番茶仕立ての茶粥で、お水取りの伝統食である。「院士日誌」の修二会中の食事の献立を記したものには、「ゲチャ」とか「ゴボ」などの記録が残っている。「ゲチャ」とは茶粥を煮て汁を取ったもの、「ゴボ」は茶粥の汁の多いものだ。このように特別な名前がついているが、お水取り(修二会)は752年から今日まで毎年途絶えることなく継続されてきた極めて稀な行事であり、大仏造営時の話と合わせて、大和では1200年も前から食べられていたと考えられる。

茶粥のルーツを調べていると、次のような伝説が残っていることも分かった。宮本正彦氏が昭和7年に書かれた「奈良茶粥」の項に、伝説として「昔悪七兵衛景清が、大仏供養に参詣される頼朝を討たんと大門の二階に隠れていた時、元来景清は大食家であったため飯をた多くさん食ったところ、何しろ一日中あんなところにすくんでいるのだから運動不足で胸がつかえて仕方が無い。そこで茶漬にしてみたがやはり腹具合がよくない。色々考えて遂に茶を入れた粥を炊いたところ非常に腹具合が良かったそうで、これが奈良茶粥のはじまりだそうだ。しかし景清が頼朝をうちそこなった所を見るとやっぱりお粥腹だった」とある。ユーモラスに書かれており、これが奈良茶粥の始まりとは言い難いが、古くから茶粥文化が根づいていたことを感じさせられる。

<参考文献> 古事類苑:明治時代に明治政府により編纂された類書(一種の百科辞典)
          院士日誌:昭和27年堀池東大寺研究所長によって書かれたもの

NPO法人奈良の食文化研究会  水谷 直利
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