平城遷都と奈良食文化の源流 奈良から始まる「医食同源」・・・薬膳料理
ことのほか暑い夏となった。熱中症でなくなる人も多かった。この暑さに負けない健康法は、環境にも配慮した温度調節、水分補給のほかに、やはり食事の工夫であろう。
ウナギも、焼き肉もよいが、ある程度の年齢ともなると、あっさりとした中にも身体に力を得る料理がほしい。
奈良の古来からの食べ物にはたいてい「薬効」があり、「仙人」ならずとも、ぎらぎらしないで力を生む食べ物が多いことがわかって来た。日本発、西欧帰りの「マクロビオティック」も、まさにその流れの中にあるようだ。今回は古来からの食べ物を生かした薬膳料理について考えてみたい。
「薬膳」というと、誰しも先ずクスリを思い浮かべて食欲がわかない。だが薬草は、日常食べていたり、よく知っている食べ物の中に薬効があるものが、意外と多いのだ。生薬、漢方は薬効成分のみ抽出した化学薬と違い、直接的ではなく、日常摂取しているうちに効果が上がるものが多い。私たち動物が、いわば本能的に要求する食べ物の中に、状況に適した薬効があるものも少なくない。「医食同源」(食薬同源)といわれるが、体の状況に応じた食べ物を選ぶことが、健康であるための重要な秘訣であることは確かなようである。
さて、薬草は人間の歴史でいうとずいぶん古くから活用されてきた。メソポタミア、エジプト、インド、本家の中国、ギリシャ・ローマ、アラビアと、文明の発達した地域では必ず薬草の記述が見つかっている。日本においても中国伝来を待たず、修験道やそれを引き継ぐ「忍者」に至るまで薬草の活用の範囲は多岐にわたる。しかし、本格的な薬草の体系だった活用は、世界的に見てやはり中国で発達した「中医学理論」の右に出るものはないといえる。化学薬品や人間工学的な西洋医療に対し、中医学・漢方医療が今日世界的に臨床的実証効果を土台として注目を浴びてきていることは重要な動きである。
この漢方医療が日本に伝わったのは、遣唐使の盛んだった飛鳥、奈良時代であったことは当然ともいえる流れであった。推古天皇の時代、聖徳太子が仏教の慈悲の思想に基づき四天王寺建立の際、寺内に四箇院(施薬院・悲田院・敬田院・療病院)とともに薬草を栽培したことが伝承されている。文献としては天平時代の723年、光明皇后(当時皇太子妃)の発願で悲田院が、730年施薬院が薬園とともに設置され、病人や孤児の救済を行ったことが記されている。同じく皇后の進言で設立された東大寺に聖武天皇の死後、遺品などを皇后自ら寄進し、それを納める正倉院が創設されたが、その中にも「種々薬帳」と約60種の薬草が献納されている。
中医学では、五穀為養(五穀は体を養う)、五果為助(果物は体の働きを助ける)、五畜為益(肉類は体を補う)、五菜為充(野菜は体を充実させる)、気味合而服之、以補益精気(これら食材と香り、味をバランスよくあわせて食べれば、精気を補い強められる)と解説する。これを整えた食養生の方法が「薬膳」なのであり、決してクスリ臭くはないのだ。
奈良では宇陀市大宇陀区に森野薬草(旧薬)園がある。吉野下市の吉野葛(薬草でもある)作りを祖先とする森野氏が、大宇陀が松山城下として栄えた江戸中期に将軍吉宗の命で薬草を調査研究し下賜の薬草を植えた薬園が、今も文化財史跡として引き継がれている。
奈良市下御門町には和風薬膳料理「京小づち」が薬膳を提供している。夏バテ防止にもぜひ訪れてみられてはいかがか。
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