下市の鮎鮨−「鮨伝来」の歴史を引く「釣瓶鮨」から発展


日本食が健康によいと、ジャポニカ米使用の「寿司」は今や世界的に日本食の典型として広がる。
一般に寿司のネタには海水魚が多く、「寿司は海辺が起源か」と思いがちだが、そうではないようだ。

古来、寿司は「鮨」と書くように、魚に米を合せて乳酸発酵をさせ旨味を引き出す。
現在一般的な酢めしの使用は江戸後期以降といわれる。さらにさかのぼると、重しを使って効率よく乳酸発酵させる方法は室町期以降に発達し、鎌倉以前は重しを使わず雑な醗酵でひどい臭のする鮨だったようだ。
このような鮨の発祥はインドシナ半島の山間部あたりで、近藤弘先生によると日本には中国を経て4世紀あたりに伝わったという。
山間部の魚(又は獣肉)の保存食として造られ、米は陸稲で淡水魚が用いられた。平安期の「延喜式」にも多くの鮨が出ているが、海水魚は見当たらないという。

話は変わって、吉野下市には「創業八百有余年」という鮨屋「つるべすし弥助」がある。
ここは江戸期に書かれた歌舞伎「義経千本桜」で源氏の追手から平維盛をかくまった鮨屋として登場、以来全国に有名となった店だ。
ここでは鮎をすしめしと合せて「釣瓶」に漬け込んだ「釣瓶鮨」をつくっていた。
奈良時代以前に日本の山間部を伝って吉野に達した鮨の原型が、桶に漬け込む鮨に発展したとみられる幻の鮨の痕跡を求めて、秋晴れの一日、吉野下市の店を訪問した。

下市町の国道を1筋中に入ると、赤い壁を見せてどっしり構える店のたたずまいが、じんわりと伝統を滲ませる。

四十九代店主である宅田彌助さんにお話を伺った。
宅田さんは、食文化の伝統深い奈良が、京都に押されて実に残念と熱い思いを語られる。
「日本の食は米の文化がベース、吉野川の天然鮎の馴れ鮨は私どもというより吉野の原点です。祭の保存食の御馳走として造られ、約四百年前慶長年間に京への献上鮨として吉野七箇村が一年交代で担当、往復一週間かかっての対応でした。
その後、余裕のあった下市村が他村の依頼で毎年献上し、二百二十年続きました。」

天然鮎を開いて腹側にすしめしを抱かせ、釣瓶様の檜のまげものに竹の皮を敷き、背を下に二匹向い合せに丸く押し込み、三段に重ねて蓋をし圧力器にかける。
籐でしっかり締めて四〜五日醗酵させた後取り出す半馴れ(生馴れ)鮨で、京に着く頃丁度良かったのでは、という。

現代は残念にも古来の味が馴染めないようで、今は調味した酢めしを抱かせて「布巾締め」で押す「鮎姿鮨」と、押し鮨の「焼鮎山椒鮨」が作られ、鮎料理がメインの料理屋として営業されている。
姿鮨の鮎は肌艶が良く柔らかい6月の若鮎に特定され、米は押し鮨に向く福井のこしひかりを使用、さすが老舗の、しっかりと深い味わいのある鮨である。

 

木造三階建て、維盛塚など由緒ある庭園を控え、伝統の雰囲気も存分に楽しめる。ぜひ一度来訪されては。
「つるべすし弥助」0747-52-0008 吉野郡下市町下市 (要予約)

瀧川 潔



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