桜井市多武峯にある御破裂山の頂きに朝陽が射し、
“立聞きの芝”では、大職冠鎌足公の御墓に里人が手を合わせ一日の無事を祈る。
藤原鎌足を祭神として祀る談山神社は桜井市の最南端に位置する標高およそ550メートルの極めて高所に立地し、古くは「鬼も住まない処」と云われるほど辺境の地であった。
その地に、本年は大化改新1360年を迎え、特殊神饌「百味の御食」を大前に奉献する「嘉吉祭」(嘉吉元年[1441]が起源、毎年10月第二日曜日斎行)が10月9日(日)斎行される。神饌として、「無垢人、花二台、神盃、神酒、神箸、にぎしね和稲(米御供)、あらしね荒稲(毛御供)、果実盛御供、ね子ヅテ、倉餅、い飯御供、青・赤楓枝」が古式の姿を残し、奉献されるが、その「嘉吉祭」の神饌「百味の御食」を紹介したい。
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「百味の御食」に用いる食材の採集
「毛御供」と称する神饌の調製にはのぎ芒の長い稲の黒・白・褐色穂の三種類が用意される。
これら有芒の稲は神饌用として毎年栽培されているものであるが、稲の丈は180センチメートルにも伸びて人の背丈程に成長する。実った米は、黒穂は黒色、白穂と褐色穂は赤色である。芒の長い稲は水が不足する所やアルカリ土壌の条件のよくない所でも強健に育ち、吉野の山中においては猪も食べにくく被害が少なかったといわれる。
「果実盛」の木の実、果実、野菜の採集には、明日香および多武峯の野山や畑に出向く。
明日香村尾曽の浦野正昭氏はナツメ、むかご、榧を神饌用に育て、世話をしている。
原種の梨の木は多武峯北山にあり、ゴルフボール大の実を鈴なりにつけるが、この辺ではこの一本のみ現存する。
ぶどう柿も明日香村西口の橘氏が神饌用に育てているが、神饌としてはマスカット大の未熟の青い実を盛る。
樫は『延喜式』にも名のある茂古の森で拾い集める。この地には654年、中大兄皇子と藤原鎌足が大極殿にて蘇我入鹿の首をはね、その首がもう追掛けてこないと安心して一憩したという伝説の石がある。
これら有芒の稲、原種の梨、ぶどう柿、樫、榧、包橘などはこの土地の先祖がもっとも好んで食し、生命の糧にしたものであろう。この食材から古代における稲作や採集した食料が窺われるが、明日香や多武峯村の里人の「嘉吉祭」によせる熱い思いと、奉仕により564年の間守り育てられているものである。
特殊神饌「百味の御食」の調製
「百味の御食」の「百味」とは「限りない」とも解されるようであるが、宝暦13年(1763)に記された『三番行事記附録』には「傳供二十隊左右共四十杯今造一方神供二十杯面図以顕傳供次第」とあり、現実に百台以上の供物が献じられていたことの証しである。
神饌の中でも、米や果実、木の実などは高盛りに調製されるが、この盛り方は大正六年に舟橋文治氏が記した『こしき古式のみて乃美天ぐら具楽』の図(下図)が基調になっている。
まず、「和稲」は「米御供」(右写真)と称され、四台調製される。その調製法は、粒のそろったモチ米を赤、黄、緑(または青)に色染めし、白と合わせて四色を用い、椀型の楓木を台にして絵紋型の模様になるように米を積み上げていく。
一塔でおよそ2400粒の米が直径4.5センチメートル、高さ10.5センチメートルの円柱に調製される。
その調理法は錦紗を織るように精巧、優美であり、筆者は「米御供」の調製を幾度も観察して、以前TVで視聴したチベットの僧が「砂曼荼羅」を描く様を連想した。
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「荒稲」は芒の長い稲を用いるので通称「毛御供」(左写真)といわれる。
白・黒・褐色の三種類の穂を用いてそれぞれ楓木の台に一穂づつ糊づけし、三台調製する。頭部には真っ赤なほうずきを載せる。
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木の実、果実、野菜の盛りものは「果実盛」と称し、明日香や多武峯村の野山や田畑で採集した里芋、栗、ヤマ梨、ブドウ柿、ドングリ、カヤ、エダマメ、包橘(コウジミカン)などで調製される。初ものを限りなくたくさん調達し、高盛りにして供える様は、この祭りが収穫祭の意味合いを強くもつものであると考える。
「飯御供」(右写真)は鎌足さんの弁当箱といわれ蒸したモチ米が二升入ったものであるが、これにはりっぱなしめ縄がつけられる。これは、談山神社近郷の多武峯北山および飯盛塚でも古くより「飯御供」、「人身御供」と称し、蒸し飯を詰めたお供えと類似のものである。このように神饌としては仏式が多く取り入れられているが、これは中世における神仏の習合思想が仏教的な戒律として神饌にも強い影響を及ぼしたと考えられるものである。
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以上、嘉吉元年に創始の「嘉吉祭」は氏子が毎年順送りで当番を務め、祭りを継承してきた。その間、明治の廃仏棄釈は多武峯の姿を一変させ、祭りは一時期途絶えた時期もあったが、その後、氏子諸氏の強い要望により古式の祭りは復活したのである。
「嘉吉祭」継承550年目の平成3年(1991)当時、氏子15軒による祭り存続が危惧されたが、その後、談山神社には「談山雅楽会」が結成され、各祭典には多武峯猿楽および延年舞が神事芸能として復活し、中世の頃の姿が甦ったのである。
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奈良の食文化研究会:富岡 典子
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