稔りの秋。黄金の稲穂が刈り終わり一番霜が降りて、吉野の峡谷が赤、黄、緑の秋の錦に彩られはじめるころ、収穫に感謝する秋祭りが吉野の山間いの村々で催される。
各種の神饌料理とともに、吉野川流域の祭の「ごっつぉ」は、必ず鯖を使い家族みんなでいただく。その代表のひとつ「さばごはん」をたずねて、吉野川上流の川上村 井光(いかり)をおとずれた。
吉野川を上流へ菜摘の大橋を南にとり東熊野街道を行き今話題の大滝ダムを越える。ダムによる道路整備で、この辺まではほんの短時間だ。ダムを過ぎたあたりで支流の井光川流域に入る。澄み切った井光川沿いの崖を切り取るように作られた山道を、
うねうねと登っていくと車道が切れて、観光施設わきの車道で崖を登ると井光の集落である。
県社の一つであり風格のある大杉を背に構える井光神社を支えるように、50戸84人の家々が明るい南斜面に展開している。訪問先の塩谷さん宅では、奥さんの加寿子さんとおばあちゃんのミトヱさんが「さばごはん」を準備して、笑顔で迎えてくださった。
井光神社の秋祭りは10月10日、昔は「とうや(当番の家)」で「もだき(今で言うパーティ)」をしたものだが、今はお宮さんの集会所でする。「あも(餅)」を千本搗きでたくさん搗いて、料理はどろいも(こいも)の田楽(しょうが、味噌、佐藤)を串に3つ刺して焼いたもの
(とてもおいしい)、秋豆(ゆがいて洋ガラシでいただく)、まつたけごはん、のっぺい汁(かんぴょう、ニンジン、シイタケ、焼豆腐の汁にカタクリでとろみをつける。皿で食べる)が中心である。
尾頭付きの鯛はしるしで、みなには尾頭付きの塩さばがふるまわれる。(それを家で料理したのがさばごはんの始まりか)さばは熊野灘でたくさん獲れ、塩をして、昔は人の背に負われて北山川沿いの東熊野街道、十津川沿いの西熊野街道を通り吉野に向けて運ばれた。
熊野の漁師たちが換金の策として海の魚のない吉野に持ち込んだというのが定説らしい。さばは生き腐れというが、かなりの塩のきついものであっただろう。庶民にとって脂の乗った塩さばは、食べられる量だけでなく、働いた後の体が塩や脂を要求し、むしろ鯛よりおいしい魚であったと思う。
特にきつい労働である山仕事の弁当では、日銭が稼げることもあって米の飯と塩さばがふんぱつされ、5合の飯を「めんつ(ひのきの曲げ物)」の蓋と身にぎっしりと詰めて間に梅干と塩さばをはさみ込んだ「わっぱ飯」が、味噌とだしじゃこ、ねぶか(ねぎ)をたき火の熱湯でといた「かきたて汁」とともに重労働を支えたようだ。
さて、本題の「さばごはんだが、井光だけでなく、お祭りの時はもちろん、「たてまえ(家の棟上げ)」や「もだき(各種催し)」など、何かことあれば各家庭で「さばごはん」が炊かれてきたという。塩さばを焼いてほぐすところや、間に合わせで缶詰を使う場合もあるようだが、井光では中以上の塩さばの半身をそのまま1釜で使う。
料理はいたって簡単で、米を普通に炊く前に、だしこぶとお酒を少々、しょうゆを塩さばの塩加減で調整して入れて、上に塩さばの半身を丸ごと乗せ、そのまま普通に炊くだけ。炊き上がったら、さばの身をご飯を混ぜながらほぐし、ねぶかのきざみをまぶしてできあがり。
加寿子さんいわく「極めて炊き良い、てっとり早いごっつぉ」なのだ。季節の野菜を入れた味噌汁と、白菜などの浅漬け、こうこ(たくあん)などの漬物、お茶でおいしい食事がいただける。この日は初夏から自家製保存のぜんまいやいたどりの料理がさらに味に彩りを添えてくれた。
ミトヱさんも「料理の上手な嫁でほんにたすかるわ」と目を細めて自慢げだ。塩谷さんを紹介してくれた大淀の上田だん、豊島さんともどもごちそうになり、おなかも知識も満足した取材の一日となった。「ほっぺたが落ちるほどおいしい」さばごはん、本当にごちそうさまでした。
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