国の料理書「斉民要術(せいみんようじゅつ)」(五三〇年ごろ)に醤(ひしお)や跂(し)の造り方が記述されている。
六世紀末に渡来した高麗(こま)人によって、この醤や跂のようなものの製法を教えられたのが、日本の味噌(みそ)の原型というのが定説のようだ。
当時は、醤・未醤(みそ)などと呼ばれていて、別の呼び方た高麗醤(こまひしお)または朝鮮語の密祖(みそ)であったというから、朝鮮半島からの輸入説にも頷(うなず)ける。
味噌という文字は平安時代初期ごろに使われはじめたという。輸入された醤や跂が、味噌の文字とともに日本独自の食品に変化してきたことを意味する。
現在の味噌の種類は、特殊なものを除いて米味噌、麦味噌、豆味噌の三グループに大別される。米麹(こうじ)と大豆で造ったのが米味噌、麦麹と大豆が麦味噌、大豆を蒸してつぶし、麹菌を繁殖させたのが豆味噌である。これらが、気候風土、食習慣、材料の混合比率などの特殊性によって、それぞれに特徴のある多種多様の味噌がはぐくまれ、その特徴には生活の知恵も刻まれている。
新庄町や当麻町地方には、豌豆(えんどう)と麦麹で仕込む豌豆味噌がある。大豆を使ったものより甘みがあり、独特の風味が好まれてか、今も一部の農家に継承されている。
自家用味噌を造るとき、春か晩秋に仕込みをする家庭が多いが、豌豆味噌は田植えが終わったころに仕込む習慣がある。これには、それなりの理由があるのだろう。
葛城山麓(ろく)に広がるこの地帯も農業用水の不足は深刻だった。この解決策として田畑輪換(でんぱたりんかん)方式という営農形態を適用したが、その時代の換金作物の価格や、その土地への作物の適正などのリスクもある。
新庄町の場合は十七世紀前半にこの方式が成立し、稲→麦→綿→菜種のサイクルで作付けしたらしい。一七七一年には水田の約七割に綿の作付けをした地域もあったという。
水不足で米が作れない農家にとって、主な食材は裏作の麦と、雑穀を含む畑の作物だったに違いない。
非常に厳しい条件の中で農作物の加工は、家計を支える重要な柱として、その役割を担ってきた。この地方の女性たちは、今も農産物の加工には熱心である。
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