奈良盆地の中央部、寺川と初瀬川(大和川上流)に囲まれた平坦(たん)な土地に大和青垣の遠景のもと、のどかな田園が広がり、新旧住宅地そして、工業・商業地も混在している川西町。
そこの下永在住の、米田嘉浩・愛夫妻に毎年のお盆の食事についてのあれこれを語っていただいた。
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八月十三日夕方迎え火の煙にのって仏を、家に迎える。仏壇には供花、お茶、菓子、それから里芋の葉の上に夏野菜、果物をのせて、供える。そこには必ずササゲのさやが、二本つながったものを加える習わしとか。
十四日朝は新物のササゲのおかいさん、昼はササゲのご飯、煮物(ゼンマイ、シイタケ、かんぴょうなどの乾物類、里芋、ナンキンなどの野菜の炊いたん)、ズイキのごまあえ、漬物など。夜はゴボウのみそ汁、おはぎ、最近はみたらし団子を供えたりしている。
十五日は、高野豆腐、ヒジキの煮物、巻き寿司(ずし)なども加え、帰省した親類も交えてのにぎやかな膳となる。午後には仏壇に冷やしそうめんを供え、供物、送り火とともに仏を送る。
それから一族で墓に行き、おっすさん(お坊さん)共々墓参りをする。その後、家に戻り、また皆で夕食をとる。夜は、今はもうないが、神社での盆踊り。深夜一、二時までも村ののど自慢の音頭取りで踊り明かした。こうした盆の行行事の中にも、その土地、その家、その人なりに形を変えながらも、今の暮らしに息づく生きた食文化がある。
その中に、盆の精霊に刺鯖というサバを供える習俗があるという。十五日昼に、必ずそれを焼いて食べる。「辛(つら)かったなあ」、そう話される米田氏の口元からして相当辛かった様子がうかがえる。
それもそのはず、その製法は背開きの塩鯖として入荷した物に、更に塩をたっぷり乗せ、一週間重しを乗せ、塩を十分に染みこませた後、天日干しを三時間、陰干しを一時間する。
それを大和郡山中央卸売市場の塩乾物卸売業者は、毎年六月終わりから八月の盆前まで仕込んでいる。昔ほどではないけれど、今もこの期間だけで八百尾ほど売れるとか。
一時は大衆魚だったサバも今は、なかなか高価であるが、遠くは吉野の山間部あたりへも買われて行く。
この刺鯖と呼ばれるのは、元は塩干ししたものを二尾頭のところで刺し合わせたというのが語源のようで、越前町(福井県)の江戸時代の文書にでている。奈良でも二尾一組の刺し鯖を供物や進物にするしきたりがあるらしいが、一尾でもそう呼んでいる。
このように魚の中、仏に供えることが認められているのはサバだけである。
古く今昔物語の説話−聖武天皇が大仏開眼の供養(七五二年)の読師を、夢のお告げで、サバ売りの老翁(おきな)にしたところ、その供養を終えるとそのイカキ(竹かご)のサバが華厳経八十巻に変じていたという−がその由来の背景にあるのかもしれない。
ともあれサバは塩蔵すると保存が利き、丸ごと、多種な料理に使え、味も見栄えも良いことから、この奈良の人々が古来より入手できた有用な食材であったようだ。
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