夏の風物、縁側でスイカを食べながら夕涼みの情景も見られなくなったこのごろ。いつのまにか大和スイカの名を聞くこともなくなった。 全国に知られ、日本のスイカ栽培史に多くの輝かしい業績を刻んできた大和スイカが、どのような盛衰の道をたどったのか。
その来歴を詮索し、日本農業の現状と重ねて考えてみたい。

「大和郡山市史」によると、郡山市中城町付近は品質の優れたスイカの産地で知られていたそうで、それが1730年ごろだというから、今から270年前には、すでに換金作物としてスイカが 栽培されていたようである。以来、県内のスイカ栽培は徐々に広がったと思われるが、その要因は大和盆地の風土、その時々の農産経済などが考えられる。
そして「権次スイカ」と呼ばれる品種が栽培されるようになった。これの種子は、天理市稲葉町の農民巽権次郎が、農家の暇をみて、灯芯の行商に出た先の愛知県から持ち帰り、 はじめて試作したのが1868年となっている。その優れた品質と、権次郎の卓越した栽培技術指導によって、栽培は大和盆地各地に広がり、大和スイカ譜代の基礎を築いた。

1901年には、県こ農業試験場がアメリカ産のアイスクリームという品種を導入し、この種子を農家に配布して栽培を奨励した。 それとともに権次スイカは姿を消し、アイスクリームも伸び悩み衰退する。この間に、権次でもなくアイスクリームでもない変種が現れ、これが大阪のスイカ問屋から好評を得、問屋がこの無名のスイカを 「大和のスイカ」と言って売り込んだのが大和スイカの由来だという。

その後、産地間競争への対応と病害対策で、県は、1922年にスイカ栽培育成の政策を打ち出し、農業試験場は品種改良事業に着手した。 これによって栽培は飛躍的に拡張し、官民一体の育種と、組織的統制販売によって、大和スイカは全国を制覇した。

しかし、農作物の特産地はいつか衰退の運命を辿る。大和スイカも例外ではない。
今、当時の名残をとどめているのは、全国需要の8割近くを占有している種苗産業のみ。
最盛期1315ヘクタールあった県内のスイカ畑もわずか百数十ヘクタールとなり、しかもその大半が彩種用圃場である。

かくして大和スイカ盛衰の教訓には、日本脳性の長期展望欠落を学ぶ。 総輸入自由化による産地間競争の国際化は日本農業を存亡の危機にまで追い詰めた。
農業再興と食料自給向上の問題で、私たちは、きわめてきびしくも深刻な課題を背負っている。

【参考文献】「大和スイカ全編」鈴木栄次郎、「大和郡山市史」、「奈良県農業技術センター資料」


奈良の食文化研究会:大江 卓司



スイカ料理というのはあまり聞いたことがない。漬物か、ジャム、スイカ水、スイカ糖などの加工品にとどまる。スイカ糖をはじめて創ったのは食通の作家村井弦斉(1863-1927)といわれている。
効能は、じん臓病、尿道炎、ぼうこう炎。漢方薬局で販売されているが、生食用のスイカではコストが高く、採種用の果肉を利用する。したがって商品としての製造は地域を限定される。
スイカ糖の創り方は簡単で、スイカの果汁を絞って種を除き、焦げないように注意して煮詰めるだけである。