奈良市東南部と天理を結ぶ国道169号窪の庄のあたりから東へ向かうと、しばらく田畑と集落が交互に見える。それをさらに菩堤川の流れに沿い、山肌に紅い実をつけた幾本もの南天に導かれるように、 その坂をのぼりはじめると、見上げれば織りなす錦楓の樹木に囲まれる。そんな山懐に正暦寺がある。

この寺は正暦3(992)年の創建。当初は十八坊が立ち並ぶ壮大さであったというが、焼矢の歴史を重ね、現在では本堂、鐘楼、福寿院客殿がひっそり点在するのみである。 しかし、県内屈指の紅葉の名所として、11月のシーズン中は臨時バスが発着するほどのにぎわいぶりである。

ここで甘酒をふるまわれることがあると聞き、副住職大原弘信さんを訪ねた。
そのお話によると、毎年12月22日に冬至の祭祀をとりおこない、参拝者には中風封じ、健康祈願のご祈祷をされたカボチャづくしの精進料理のお接待がある。
併せて寒い時期でもあるので、どなたにでもと甘酒がふるまわれているとのこと。

この寺は清酒発祥の地として、僧坊酒は酒造史上にも残る名酒として脈々と受け継がれているが、この甘酒の方にはそんな古くからのいわれはない。
とはいうものの、ご自身の子供時代に、この寺の正月の祝い膳に必ず添えられていた甘酒を臼でひいて白酒としたものが、甘いものがめったにない時代、たいそうご馳走と思えたとか。
そんな喜びを、このお接待にこめられているようだ。 冬至には専訪して、この山間の厳寒の中で、お心づくしの甘酒を味わってみたいものである。
さて、この甘酒造りの麹の入手先が、奈良市京終町の「はしへい井上商店」である。創業元治年間、4代目当主井上平祐さんにもお話を伺った。

無添加の醤油醸造を本業とされているが、その蔵の中の麹室では蒸し米に種麹をつけて、その表面では今まさに麹菌の繁殖中であった。摂氏35度の一定温度を42時間保つという。 こうしてできた生麹や、その麹を使っての甘酒も「はしへい甘酒の素」としてパック詰めにして、常時ここで販売されている。
米は煮るのでなく、蒸して使ってあるので、舌ざわりがさらっとして飲みやすく出来上がっている。

ところでこの甘酒、飲めば体が温まる冬の飲み物とばかり思っていたが、江戸時代後期の「守貞漫稿(もりさだまんこう)」という書物では「江戸京阪では夏になると甘酒売りが市中に出てくる」とあり 「現代季語事典」でもなんと夏の季語であるという。このことで醸造学、発酵学の小泉武夫博士が次のように述べられておられる。 発酵を司る微生物はその発酵過程で多数の栄養成分を生産するので、米を蒸しそれに麹菌を繁殖させた麹を使い、さらに米と合わせて醸しだされた甘酒はまさに滋養の宝庫とも言うべき飲み物となる。

冬の寒さはなんとかしのいでも、夏の厳しい暑さに勝てず亡くなってしまう人も多かった江戸時代、人々の知恵から編み出された、まさに体力回復の即効性のある栄養ドリンク剤として重宝がられたのであろう。
その多含している成分のブドウ糖、ビタミン類、必須アミノ酸は、今日の栄養補給のための点滴の輸液そのものであるという。発酵食品の威力に驚かされる。
以前は自家製でされていたところもあるようだが、現代は即席、スピード化の流れで家庭で作られることは遠のく一方である。 だが、初めての方でも時間さえかければ、簡単に作ることができるのでどうぞおためしを。


奈良の食文化研究会:松波 芳子



甘酒

<材料>
・もち米またはうるち米1キロ
・米麹1キロ
・湯水

<作り方>
@もち米を洗い、柔らかく蒸す。または柔らかめに炊飯してもよい
A@を60℃に冷まし、麹を混ぜる。湯水を注ぎながら55℃になるように調節する
Bそれを保存して8時間保つ。途中2・3度かき混ぜる。次第に糖度が増してきて独特の甘味が出てくる。好みで塩、しょうがの絞り汁を加える
保存は急速に冷まして冷蔵庫で。(甘酒はアルコールを含まないので「酒類」ではありません)