大和郡山市は、城下町として広く知られている。今に残る、紺屋(こんや)・鍛冶(かじ)・車などの町名は、町ごとに同業者を集め、営業上の独占権を与え保護した名残である。
食に関するものも少なくない。豆腐・塩・魚・鰻堀・雑穀(ざこく)・茶・茶園場(ちゃえんば)など、当時の繁栄がうかがわれるが、食生活ははたしていかようであったのだろうかと、城址内にある柳沢文庫をお訪ねした。

来意を告げると、米田弘義研究員が快く応じてくださった。
ここには、地方史の専門図書がズラリと並び、柳沢歴代藩主の書面・年録・和歌日記などが数多く展示してある。 その中に、文人・茶人としても有名であった3代藩主柳沢保光(1757-1817)の手紙があった。達筆な文字は、研究員の解説なしでは読めない。その一部に茶会記が書いてある。

三月廿六日御上分御朝飯
豆腐
一、平 あんかけ ご飯
すりせうか

一、味噌汁 たたき菜
香のもの大根

三月廿七日御帰城之節昼飯
わらひ
一、焼豆腐 ご飯
干かぶら

一、味噌汁 もみとうふ
香のもの大根

三月廿六日御下宿御朝飯
一、平 とうふ ご飯
八はい
香のもの大根

振る舞いといえども誠に粗食である。椀に、八はい豆腐とある。
ほかに郡山町史にも保光が、吉野の花見を兼ねて領内を巡視した時の記録があった。随行した焼き人が、庄屋宅に止宿した時の 献立の一部である。心からなる接待の食事がこれであるから、一般庶民のものは、これ以下であったことは言うまでもない。
その中で町名にも残っているが、豆腐は毎食使っている。
私の祖母も、豆腐の八はいばかり食べていた育ったらしい。

昔から比較的安価で、手に入りやすいタンパク源として重宝したのであろう。
八はいとは、水4、しょうゆ2、酒2で、八はいと名づけられたと、教えてくださった。

古文献によると、豆腐がはじめて記録に記載されているのは、平安末、源平時代の寿永2(283)年、
奈良春日大社の御供物としてである。 漢(中国)より日本に、それも奈良に初めて伝わったのだ。
一方、土佐(高知)では、文禄年中(1592-1596)に、山内一豊が高知城を築いた時、朝鮮国虜人朴好仁(パクホイン)の子孫により造られたとある。 これは挑戦の豆腐が日本に伝わったものだ。
温故知新。いにしえの日本の食にふれ、食糧自給案がわずか42%(1995年)なのに飽食の時代と言われ、食事の欧米化による生活習慣病がはびこっている今日、考えさせられる一日であった。


奈良の食文化研究会:中尾 ヒロ子



八はい豆腐

<材料>(4〜5人分)
・もめん豆腐1丁
・卵2個
・ミツバ1/2束
・かたくり粉少々
・水1/2カップ
・しょう大さじ3強
・酒大さじ3強

<作り方>
@ミツバは、さっと湯を通す
A豆腐は、短冊に切る
B水、しょうゆ、酒をなべに入れ、豆腐を入れて一煮し、卵を割りほぐして入れ、ミツバを上にのせる

※水、しょうゆ、酒を4対2対2で再現してみたが、辛い。4対1対1かと思う。当時は、だし汁は使わなかったようだが、4も、だし汁がおいしい。切り方も、当時の豆腐は硬かったので短冊でもよかったが、今のは水分が多いので奴に切るのがよい。