橿原市今井町は、近鉄大和八木駅の南方に位置し、えぢ時代には大商人がひしめき繁栄を誇った。
町史によれば、元禄2(1689)年の「今井町覚書」に「市歴史的な町並みを大切に守っている橿原市今井町中交易繁美にして商家の都の地にひとしく、諸大名御旗本の蔵元賄御用達輩当処より勤するの家柄も数多く…」とあるという。
冬至の大名貸や蔵元であった家の外壁には、借金に来た武士が馬をつないだと伝えられる「駒つなぎ」が今も残る。
その後経済の中心が移行し、明治から昭和にかけては、さしもの今井町も衰退に一途をたどり、歴史の表舞台から退いて静かな住宅地となったが、住民の方々の町並み保存の努力により、今も江戸時代の様式を保った民家が軒を連ねる。
昔ながらの街路には、ガス灯を思わす街灯がともり、街全体が文明開化の時代の雰囲気を醸し出している。
この歴史的町並みを大切に守っている今井町の方に、正月の伝統料理を聞いてみたが、ここでも食に関する古いしきたりは徐所に失われつつある。
年の始まりを祝う雑煮も今風に変えているところが多いなかで、伝統を守っている数少ない家を訪ねた。
古くからのしょうゆ醸造業を営む恒岡さん方では、今も正月の3が日は人数分の祝膳を並べ、雑煮をいただくとのこと。
自家製の白みそ仕立ての雑煮は、丸もちにダイコン、コイモ、豆腐を入れた白みそ仕立てとのことであった。
民俗学者の柳田國男は、「像には元は直会(ナオライ)と云い、神に供えた飲食物を、祭り終わって分配して食べるもののことであった」と私見を述べているが、今井町に残る雑煮の形式も、古代の直会そのものに思える。
奈良のほかの地では、雑煮にきな粉を添えることが多いが、今井町ではつけない。
きな粉は、豊作を祈るための稲の花を表すといわれ、サビラキや田の祭りにも使われるが、商業を中心とする今井町で添えないのは当然であろう。
食生活が豊かになるに従い昔ながらのものは疎まれ、多くが今風に変化してしまったが、この機会に先祖たちの敬虔な祈りに思いをはせ、年中行事の本来の意味を考えてみてはいかがか。
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