霧の降りる季節が、すぐ近くまでやってきた。十津川名物「柚(ゆ)べし」の原料、柚子(ゆず)の収穫の時期でもある。
車を走らせて、五条市から南に進路をとり、国道168号に入ってしばらく行くと、目の回るような急カーブの連続する坂道「天辻」にさしかかる。
峠を越して十津川の本流に添って南にのびる国道は、渓谷からV字型の谷を刻む山の中腹を通り、トンネルやダムの湖畔・絶壁の上の曲がりくねった道など、自然の美しさとスリルを楽しむこと約一時間、やっと十津川村の入り口にさしかかる。
村内を縦断するのに車で一時間以上もかかる大きな村も、険しい山々に阻まれて、その長い歴史は都市から隔絶され、近代文明の圏外に置かれていたがために、その環境によって育(はぐく)まれた特異的な文化もまた、へき地なるがゆえに持続できたのであろう。
蜃気楼(しんきろう)のように天空に浮かぶかに見える尾根の民家、びっくりするような急斜面の畑。耕作できるところをすべて利用しても、村全体の面積の一%程度の耕地しか確保できない条件のなかで、食料を自給した時代の食生活の厳しさは、戦中戦後を十津川で生きた年代の人はほとんどが経験してきたことである。
樫の実から彼岸花の球根にいたるまで、おおよそ食べられる動植物のすべてを食料とし、芋類が上等の主食であったであろうことは、「十津川の芋侍」「デコ(木偶)廻し」(芋を晩のうちに塩味で炊いて置き、明るく日串刺しにして炙=あぶ=って食べた。
串刺しにしたまま回しながら食べる格好が木偶を遣う姿に似ているので、芋を食べることを「デコ廻し」と呼んだ)の言葉が残っていることでもうかがい知ることができる。
国道や林道が整備されて、都市圏へも日帰りができるようになった今では、食生活も次第に変化して昔の名残をとどめるものも数少なくなった。
「柚べし」はその数少ない中のひとつだが、その由来については定かではない。
幕末のころ、十津川郷士が常に携行していた兵糧食だったという言い伝えもあるから、かなり昔から作られていたようだ。
現在、道の駅や道端の売店で売られているものは原料もいろいろと工夫されていて、その独特の風味は酒のつまみや味噌(みそ)汁の薬味などに広く利用できる。
商品として生産しているのは村内でたった一人になってしまったそうだが、願わくは将来に引き継いでもらいたいものだ。
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